パンチョの人間万事塞翁が馬

自分の関心事をつぶやくよ

マラソン大会の中止による参加料の取り扱い

2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で、 各地のマラソン大会が中止・延期が相次いでいる。

被災地におけるマラソン大会の開催は参加者や観客、交通網等の状況を考えて中止は止む得ないと思う。 一方で被災地とは大きく離れた大会でも中止または延期の決定を下したところも多々ある。

被災地から離れた大会が中止になるのは、いわゆる「自粛」ということになるのだが やれないことはないというのに、「お祭り騒ぎはさすがに不謹慎だから自粛して中止します。」っていうのは釈然としない。 と言いつつ主催者側が決定したことには大いに従うが、ここで焦点となるのは大会参加料の取り扱いについてである。

実はというとこの点について考え出したのは、昨日mixiのコミュニティ「ランニング」のトピで 「大会中止の参加料についてご意見聞かせて下さい」というものを目にしたからだ。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=61116108&comm_id=42148 (要ログイン)

トピの主題を以下抜粋。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 トピ立てさせていただきます。

【大会中止の参加料の取り扱いについてご意見聞かせて下さい】 四日市シティロードレースが今回の地震で中止になり、そのお知らせのはがきが本日届きました。

■以下、はがきの内容■

第14回四日市シティロードレス大会 中止のお知らせ

3月11日発生の東北地方太平洋沖地震で甚 大な被害が発生している状況を考慮し、4月3日 (日)に開催予定の「第14回四日市シティロード レース大会」を中止とさせていただきます。 参加申込みをいただきました皆様には、大変 ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご理 解をいただきますよう宜しくお願いします。

なお、参加料につきましては、準備等にかか りました経費を除き、被災地を支援するために 義援金としてお送りさせていただきます。

被災された皆様にお見舞い、お悔やみ申し上 げますとともに、1日も早い復興をお祈り申し 上げます。

四日市シティロードレース大会実行委員会 会長 ○○○○

■ここまで■

大会中止も被災地への義援金も賛成ですが 参加者の参加料を中止になったからといって 主催者側が義援金として送るのはアリですか?

みなさまのご意見お聞かせ下さい。 よろしくお願いいたします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私はこの部分を見て、主催者側が一方的に参加料を義援金として送ることに大いに疑問を抱いた。

確かにこの時勢に義援金を送ることに問題はないのだが、 すべての参加者が、参加料をすべて義援金として回すことに賛同しているわけではないのだ。

主催者側にしてみれば、 「この時勢だから自粛して中止し参加料を義援金として回す」ことに 参加予定者の反発を買うことはないと踏んだのだろう。

しかし一方的すぎる。

規約の上では、「参加料はいかなる理由があっても返還しません。」とあっても納得できないのである。

なんだかんだ言って、 被災していない大会が中止になって、 走るために参加料を払ったのに走れない それも一方的に義援金として回す・・・。 おまけに義援金をどこを経由して回すのか明示してないことも問題だろう。

私自身の意見として、

自粛する方向で中止になった大会の参加料の取り扱いは 参加予定だったランナーたちに

A:参加料を義援金として回す。 B:参加料を返還してもらう。

の2択を選べるようにするべきではないだろうか。 (他の選択肢も考えられるが、ここでは2択)

元は走る予定のランナーのお金であるので、主催者側が一方的に決めるのは余りいい気はしない。

今回、私がこれから参加予定のマラソン大会は幸いにも中止や延期に至らなかった。 もし中止になった場合は、上記の選択肢ではBを選ぶ

 

というのは、Aでももちろん良かったのだが、 いまいち「参加料のいくらぐらいで、どこを通して被災地に届けるのか」がハッキリしていない以上、選択しづらい。 それに、大会運営側が義援金を回すとき、これがとある某団体であったら、義援金の一部が某団体の運営費になり 全額被災地に届くことはない場合がある。

それならばBを選択して、参加料を(全部になるとは限らないが)返還してもらって そのお金を自身の判断で日本赤十字社などに回すほうが断然いい。

何しろ自分の判断で義援金として回すことになるからだ。

大事なのは始めから選択肢を設けて参加予定者に選択・判断してもらうことだから。

そういう意味で、私は大会中止をした主催者側の一方的な判断だけはやめてほしい。 そうなると次からは中止した大会をエントリーしたくなくなる。

少し憂いている私であった。